2016年04月20日
。特に化け猫物は大嫌いで、
そう遠くない内に鬼籍に入る身と思うからだろうか、最近「妖怪」に親しみを覚えるようになった。そこで「図説 百鬼夜行絵巻をよむ」とか水木しげるの「決定版 日本妖怪大全」を手に入れて読み始めた。そこで分かったことだが、妖怪はもうかなり前から人気者になっていることを知った。矢張り、高齢化社会になったせいなのだろうか?
元々は、怪談物は好きではなかった本物の猫も嫌いである。化けるのはいい。化け猫の化け方が自分を可愛がってくれた主人が非業の最後を遂げ、その敵を討つために化けて出るなど烏滸がましい。忠犬ハチ公のように主人が死んだ事も分からず、待ち続ける健気さが良い美麗華旅遊糾紛。
幽霊は人が怨みを遺し、成仏できない魂が「恨めしや…」と云って出てくる。江戸時代になって世の中が比較的に平和になって、割に合わない死に方をすると無念が残る。武士階級には敵討ち(身内を殺した相手を討つ)とか妻敵(妻の姦通相手を討つ)とか云うのがあったというが、実際は現実に敵を討つとなれば大変なのでお金でケリを付けていたという。一方、理不尽に殺され何の落とし前も付けられないことも多かったので、化けて出ることで憂さを晴らしたのだろう。幽霊画が浮世絵師によって描かれ結構売れたようだ。浮世絵師の幽霊は風情があっていい。どことなく愛嬌がある。化けて出るにしても幽霊になって出るにしても、非現実的な表現である以上、人に受けなければ意味がない。出るなら愛嬌なり風情が欲しい美麗華旅遊糾紛。
しかし戦後の人たちは物語や映画などで「恨めしや!」では恨みが晴れないと思い、本当に「仕置き」をしてくれる必殺仕置き人なる家業を創作して憂さを晴らすようになる。非現実的で非合法な怨みの晴らし方だから、奇想天外な方法や、キャラクターの組み合わせの面白さで殺し屋に化けて出る。
愛嬌や奇想天外な方法で非現実的であっても恨みを晴らす為に人を殺すドラマはやはり限界がある。現実に19世紀から21世紀にかけてどれだけ多くの人が理不尽に殺されて来たか。 地球上にその人たちの恨み辛みが漂っている美麗華旅遊糾紛。
妖怪は非人間にも魂があると訴えているのだ。特にアミニズム信仰の日本にあって全てのものに精霊が宿ると考えてきた伝統的な精神が生み出したものが妖怪である。ものを大事にしない、大地や自然、生きとし生きる物全てを敬い大事にすることの大切さを訴えてひょっこり出てくる。そこが魅力なのだ。
室町時代の土佐光信筆の「百鬼夜行絵巻」は実に魅力的である。前に琵琶の妖怪を紹介したが、最近手に入れた「かわいい妖怪画」という本の最後のページに「本書のコピー、スキャン、デジタル化等の複製は著作権上での例外を除き、禁じられています。」とあり、画を紹介すると著作権法と云う化け物が出てくるかもしれないので省略します。
Posted by 万に一つ at 15:26│Comments(0)